此のエッセイのタイトルはシェイクスピアの関係していたグローブ店の入口に書かれていたラテン語のモットーで「世界はすべて劇場なり」という意味である。世界は劇場であるということは云い換えれば人生は舞台であるということに他ならない。我々は此の人生の舞台に登場してから退場するまで何等かの芝居を演じながら一生を送っているものなのである。
人によっては平和なホームドラマを演じているものもあろうしハラハラさせられる様なスリラーものを演じているものもあろう。時としては涙なくしては見ていられない悲劇を、時としてはふき出したくなるような喜劇を演じているものもある。
普通演劇の役者は悲劇を得意とする者もあり、一方ではコメディアンとしてでなくては舞台に立たぬものもあるが、人生の舞台では我々は役の自由選択はむつかしい。喜劇を演じて楽しく一生を渡ろうとしても、とんでもない悲劇を強制的に演じるように運命づけられることもある。
又、その人物のもつ技量と与えられる役が相応するかどうかも全く解らない。大根役者が総理大臣などを演じて小突き回されながら舞台の上をよたよた歩いている風景など甚だ滑稽なものだが、その反対に十分な才能がありながら人生の舞台では馬の足などをやらせられている姿は笑えない悲劇である。人生の舞台にはミスキャストが案外に多いものなのである。
学生に芝居をやらせてみると一般に女子学生の方が遥かに男よりうまい。第一彼女たちが毎日やっているお化粧なるものがメーキャップそのものなのだ。その他彼女たちの生活万事が男より遥かに芝居気が多いのである。それに比べれば男は舞台に上がること自体が初舞台なのである。毎日演技をして暮らしている女にかなうべくも無いことである。
更に人生は舞台であるということに関してもう一つ考えられることがある。それは演劇というと、とかく舞台の上に立って芝居をしている人だけが演劇を作っている人であるかの様に思う人があるが、事実は全くそうでは無いのである。その事は社会の表面に立って脚光を浴びて、はでに動いている人だけが社会を動かしてでもいるかのように思う錯覚を抱く誤りに良く似た誤りである。演劇では裏方といって舞台に出ない影の道具方や照明や効果を受け持っている人、舞台の上の役者がせりふを忘れたとき背後からそっと教えてくれるプロンプターとか云ったような、実に多数の縁の下の力持ちの様な役目の人々が、ひとつの芸術を作り上げる為に寸分の隙も無く協力してはじめて芝居というものが出来上がるものなのである。表面に見えて動いている人だけで芝居など出来るものではないのである。このことは社会に於いては主役も端役も裏方も皆が良い社会を作るという共同の目的の為に一致協力しなければ駄目だという事と全くかわらない。即ち主役も裏方も等しく重要な価値を持っているものなのだ。
正に人生は舞台である。我々が芝居を見るという事は人生を眺めるという事なのである。シェイクスピアがハムレットの中で演劇というものは人生を鏡に映して見るものだといっているのは正に真実な言葉だといっても良かろう。
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